夏草や兵どもが

 心の中まで水浸しになりそうなくらいの長い梅雨であった。洗濯物を天日に干すということを最善の美徳と考えている我が家では、この長雨が本当に恨めしいものであった。

しかし、やっと梅雨明けが宣言されたと思ったら、連日真夏日の酷暑である。

一斉に道端から、空き地からさまざまな夏草がそれこそ怒涛のように繁りだしている。夏草をみると必ず脳裏をよぎる言葉がある。表題にも書いたが「夏草や兵どもが夢の跡」である。

誰もが知る俳諧“松尾芭蕉の句”である。彼の有名な“奥の細道”紀行の途中、奥州平泉で詠んだ句とされている。あらためて奥の細道の行程が浮かぶ。

江戸の深川から北上し仙台を越え、日本海に出て、新潟・富山・福井を経て岐阜の大垣まで約1800㎞のロングランである。しかもおよそ150日で歩いている。1800÷150=1日平均約12㎞である。しかし、記録によれば仙台では5日滞在したり、他にも2、3日滞在しているところも幾つかあり、毎日12km歩いているわけではないことが分かる。

時には一日で50㎞歩いた日もあるようである。当時の道は、平坦ではなくそれこそ険しい道や細道もあったであろう。また藩から藩に移動する際は、通行手形が必要であり、庶民には簡単に通行手形は発行されなかったという。

そこで、通説の芭蕉=忍者説である。生まれは伊賀上野であり、幕府の密偵として仙台藩の状況を探索に行ったのではないかというあまりにも流布されている話がある。世は空前の忍者ブームであるという。

三重県にある三重大学には忍者学講座があり、なんと部活では忍者部もあるという。忍者は手裏剣を投げたり、宙を舞ったり、水上を歩くというイメージが強いが、主な任務は情報収集にあったようである。寺子屋などで文字を教えたり、商人をしながら街の情報を収集し、人やモノの流れ、売れ筋の商品、地域で盛んな産業等々様々な情報収集をしていたらしい。そしてそれらの情報が城下の祭り事に活かされていた。

考えてみれば、我々の職業も似通ったものである。経済の動きや法改正の情報収集。経済構造が大きく転換しようしている現在に、いかなる情報を取捨選択し生き延びるための方策を模索し、お客様のニーズに応えようとしている。

今朝も、地元の市役所に情報交換に出向く。7階の会議室に入りいつものように窓から北の方向に眼をやる。若き日の徳川家康が暮らした浜松城が見える。ここから家康は何を見、何を描いていたのか?伊賀忍者服部半蔵は庭に身を隠し、家康に何を報告していたのだろうか?

我々も高度電子社会に後れを取ることなく、常に新知識という名の手裏剣と経験則の鎧を身に纏い、
“夢の跡”にならないよう精進をしなければならない。と同時に併せて、Going Concernを目指し、若き忍者諸君も育成していかなければならないと、この城郭を見ながらあらためて思う。

令和元年8月1日

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です