2024年10月「金次郎君」

 朝夕は、涼しくなったが、湿気が高いせいだろうか、5分も歩くと汗が背中を濡らしてくる。「痛いのを無理して歩かなくても」と、人はいうが、生来の天邪鬼である私は、「歩いていれば良くなる」と信じている。                                                                                                        

 今日も痛む足腰をかばいながら早朝の散歩から帰途に就く。この坂道を越えれば自宅である。坂の下から、出勤途中の男性が歩いてくる。スマホを身ながら歩いてくると思ったが、よく見れば本を開いている。あまりにも夢中で読んでいる様子から、言葉を掛けずに通り過ぎた。思わず、心の中で「二宮金次郎だ!」と叫んでいた。「二宮金次郎」すでに死語にちかい名前かもしれない。

 以前は、あちこちの小中学校に二宮金次郎の銅像が建っていたが、今はその姿を消してしまった。「現在の教育方針に合わない」「歩きスマホを助長するから危険」等々の意見から、全国的に撤去が進んだらしい。もっともなことではあるが、ほかに方法はなかったのかと思う。「薪を背負って歩きながら本を読む」ということに焦点を当てずに、「本を読む」ことの大切さを説けばよかったのかとも思う。

 人はひとりでは生きていけない。生きていくためにはコミュニケーションが必要である。コミュニケーションを円滑にするためには“言葉”を知らなければならない。言葉はどこから来るか?話し言葉からも来るが、その語彙は少ない。語彙が多いのは書籍である。本には先人・先達の語彙が宝石箱の中の宝石のように輝いて存在している。それらに触れることが語彙を多くすることである。自分の持つ意見や感情を豊かに表現するのは、すべて語彙の量(私にもっと語彙があればこんな表現にならなかったと思うが…)である。

 基本的に日本人は、日本語を母国語としている。                                                                                       しかも、この日本語はどんどん変化していく。古典における「いとをかし」や「あはれなり」も現代の日本人の感覚と異なるし、現在、若い世代が使う「ださい」や「えもい」という言葉の意図するところは、私が持つ感覚と異なる。                                                                                                    しかし、すでに国語辞典に掲載されている日本語である。金次郎君も変わらなければいけないのかもしれない。薪を降ろしソファーに座り、kindleを読む姿に……。つれづれなるまま、読書の秋に。

2024年10月1日

Photo by kishimoto