2024年12月「忍び寄る天使」
晩秋というのに、夏日のある日。相当“ヤバイ”ことがあった。(この場合の“ヤバイ”は、「まずい」「あぶない」という意味で使う。なにしろ“ヤバイ”には「すごい」とか「カッコいい」という意味の使い方があるのだ。それにしても、我が母国語ながらに日本語は難しい。漢文から万葉仮名が生まれ、そこからひらがなが自然発生的に生まれ、現在の日本語があるが、それにしても日本語は目まぐるしく変化している。誤用とされてきた言葉も、正しい言葉になることもある。
例えば、「的を得る」という言葉である。これは本来「的を射る」が正しいとされてきたが、三省堂国語辞典第七版では、「的を得る」も正しい表現と明記された。また「汚名挽回」も正しくは「汚名返上」あるいは「名誉挽回」であるが、同辞典で「汚名挽回」も正しい語法であると修正されている。あげれば切りがないくらいに、言葉の変化は激しい。なにしろ千年前にも清少納言が『枕草子』で日本語の変化を嘆いているくらいである。
私も含めて多くの人が、古典は苦手ではないかと思う。変化し続けている現在の日本語さえ、戸惑うことが多いのだから、古典が読めるわけがないのだ。『古事記』『日本書紀』はもちろん、訳文でない『源氏物語』は、なおさらのこと読めない。せいぜい鴨長明の『方丈記』ぐらいの時代から読めるものではないか。
有名な冒頭部分を引用すれば、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ
うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし
“河の流れ”と”うたかた“を「言葉」「日本語」に置き換えれば、久しくとどまりたるためしなしである。
徒然なるままに、書いてきたが読み返してみれば、括弧のなかの文章が長すぎた。そろそろ本題に戻ることにしよう)
そう、ヤバイことがあったのだ。家人が不在のときに、お茶を飲もうとやかんを火にかけた。お湯が沸くまでの間に洗濯物を取入れ、洗濯物をたたんでいるときであった。台所のほうからピーピー音がしたので急いでいくと、ガス台の火が消えていた。そうお湯を沸かしていたことを忘れていた。やかんの蓋を開けると、水はすべて蒸発して空となっていた。頭の中も空っぽになった。すっかり、やかんを火にかけたことを忘れていたのだ。ガス台は自動的に止まるから事なきを得たが、こうして認知という名前の天使が忍び寄って来るのかと思う。加えて、このブログもすっかり忘れていた。「もう書きました?」という声を聞き、慌てて書いたものである。相当“ヤバイ”年の暮れである。
2024年12月1日
Phot by kishimoto