2025年4月「満開の桜の下で」
さて、今朝はどこに行こうかと思案する。先月も書いたが朝の散歩である。行き先は、ほとんどが前日の夜に決めているのだが、行く先が定まらずに歩き始めることがある。これは、目標が定まっていない経営計画のようなもので非常に危ういものである。
それこそ気の向くままにウロウロ歩くことになり、どこまで行ったかという達成感に欠ける。別に散歩に達成感を求める必要はないと思うが、生来の気質からか目標を定めておきたい。それでないと家人の言うように「どこに行って何をしているのやら、まるで徘徊老人のようだ」という低い評価になってしまう。
いつでも、どこでも良く見られたい。と思って生きてきた私は、低評価に甘んじるわけにはいかない。現に今受けている大学の授業でも、3年生が終了した3月末の成績は、自分なりに好成績だったと自負している。4月から最終年度の4年生になるが難関度の高い科目をどうクリアするか歩きながら考えていた。
舗道にひとひらの桜の花びらが落ちていた。いつの間にか桜の季節になっている。目標は、浜松城公園に定まり、方向を変える。膝と腰の痛みを気にしながら、不揃いの石段を登る。だんだんと桜が近づいてくる。すでに満開となっている。誰もいない。背中にゾクッと寒気が走った。
“桜の樹の下には屍体が埋まっている”の言葉ではじまる梶井基次郎の『桜の樹の下には』という怖い短編を思い出したのだ。早朝のひと気のない時間だから思い出したのかもしれない。
そう思うと、坂口安吾の『桜の森の満開の下』も蘇ってきた。鈴鹿峠の桜の森で、桜の咲かない頃は何ともないが、桜の季節となると怖いことが起きる物語である。最後の部分を引用すると「女の姿は搔き消えてただ幾つかの花びらになっていました。その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延ばした時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。」
寒の戻りでひんやりした空気の中で「冷たい虚空」がさらに拍車をかけて迫ってきた。見上げれば満開の桜である。天気はよいのだが、冷気が漂っている。仰げば、桜が、桜が迫ってくる。大勢の人達で、桜見物しながら飲めや歌えやの宴会ならいざ知らず、ひと気のない満開の桜の下は、息をひそめて足早に通り抜けねばならないと思う。桜の季節のなかで、こんな物語を読んでみるのも一興である。

2025年4月1日 photo by kishimoto
参考文献
梶井基次郎「桜の樹の下には」(『檸檬』所収) 新潮社 2003年 坂口安吾『桜の森の満開の下』立東社 2019年