22025年9月1日『世間というもの』

 振り返ってみれば、ことしの3月は、残念なお知らせの連続だった。それは突然押し寄せてきた。長年に亘りクリーニングをお願いしてきたクリーニング屋が廃業するという。私の同級生でもある。同世代は、ほとんど定年退職を迎え、数少ない「未だ仕事をしている同志」であった。私の人生の大半のワイシャツ・ネクタイ・スーツなどを仕上げてくれた。背広のポケットに飲み屋の女性の名刺が入っていれば、家人にわからないように渡してくれた戦友であった。廃業の理由は後継者の不在である。

 失意のままに、坂道を昇り、美容院へ。整髪が終わり勘定を支払おうとすると、

今月で閉店だという。こちらは、40年以上通った美容院である。私の毛量が多くあった時代からの付き合いである。知り合いに、腕が良いと紹介され通い始めた美容院だ。確かにカットの技術は確かであった。私の髪の減少に合わせて、整髪をしてくれた。廃業の理由は、長年細かくハサミを動かしてきたことから腱鞘炎になり、カットが思うようにできなくなったとのことであった。

 さて、どうする。幸い、また知り合いが別の美容院を紹介してくれた。明るくて感じの良い店であった。しかし、無理もないことだが、しょせん髪の毛の少なくなった私のヘアスタイルを格好よくしてくれという要望は、昨日や今日出会った若い美容師ではできないのである。それは彼女が悪いわけではない。そもそも無理な要望である。

 さて、どうする。迷いながら、坂道を下ると店先に昔ながらの赤と青の帯がクルクル回っている。思い切ってドアを押した。子供のころ通った床屋の匂いがする。もう引き返せない。促されるままに、椅子に座ると店主が「どうしましょう?」「若く見えるように」「お客さんはまだ若いですよ。僕なんかもう83歳ですよ」と笑いながら手早くハサミを動かしていく。尋ねれば、90歳までは仕事をするという。

 ベテランの業である。私の満足するヘアスタイルに仕上げてくれた。料金を払おうとすると、前出の美容院の半額近い金額である。これなら、月に二回は来られる。、家人もお客様も、事務所でも誰も何も言わない。関心がないのである。

世間とはそういうものだということに、この歳になって気づいたものである。

2025年9月1日

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Photo BY Kishimoto