2024年7月「記憶のかけら 其の1」

「ミスターのユニフォーム」

 「私には、息子が一人いるが、その息子が「子供や孫たちのために、まだ頭が働いているうちに昔話を書いてくれ」という。ひとから頼まれるとNOの返事ができない私は、それこそ思い出すまま徒然に書くことにした。人の脳には“前頭葉”や“海馬”という記憶をつかさどる部位があるが、そこから断片的に甦ってきたことを書いていくので、時系列には進まないし、シリーズ化も期待しないでほしい。また、昔話であるが故、現代社会のコンプライアンスとかガバナンスという観点から配慮にかける表現があるかもしれないが当時の世相を反映する意味からもご容赦願いたい。」

 今年も、7月の声を聞いた。元旦から早くも折り返しである。7月というと真っ先に思い出すことがある。小学校6年生1学期の最後の日である。その頃は通信簿とよばれる成績表を担任の先生から渡された。苦手な音楽の成績が上がっていた。校門前のシーラ婆(註1)のいる駄菓子屋で飴玉一つ買うと、口に含んで同級生たちと争って自宅に向かった。途中、川端から仰いだ空に入道雲がにょっきり出ていた。絶好の天気であった。

 家に帰ると、通信簿のことは何も言わず、ランドセルをほっぽり投げると、麦わら帽子とグローブ・バットを掴んで、近所の原っぱまで一直線。仲間が10人集まれば、5人づつにわかれて野球ができる。野球と言っても1塁から本塁まであるものではなく三角ベース(註2)の野球であった。その頃、テレビの放送が始まって間もないこともあり、野球は人気のある読売ジャイアンツの試合が中心となって放送されていた。子供たちのヒーローはジャイアンツの王選手と長嶋選手と相場が決まっていた。

 陽が傾く頃になるまで毎日草野球に明け暮れていた。あるとき、仕事を終わった私のおやじが遠くから野球を眺めていたことがあった。私も含めてその時代の夏の少年の草野球は、麦わら帽子をかぶりランニングシャツに短パン。足元はゴムジョンジョ(註3)といういでたちであった。

 ある日の夕方、野球を終わって弟と家に帰ると、おやじがニヤニヤ笑って、こちらに来いという。これを着て野球をやれと言う。風呂敷包みを解くと、そこには読売ジャイアンツのようなユニフォームが…。しかも背中の番号は1と3(註4)である。私が3で弟が1のユニフォームを着ろと言う。どうしたのかと恐る恐る尋ねると、スポーツ用品店で作ってきたという。決して裕福な家ではなかったので、おやじは無理をしたのだろうと思ったが、弟と目と目を合わせたまま言葉が出てこなかった。これを着て草野球をやるなど考えられないことであった。

 野球仲間に笑われるか、怒られるか、妬まれるか、バカにされるかのいずれしか選択肢はないと、私も弟も思っていた。おやじは続けていった。「お前たちは野球の才能がある。だからこのユニフォームで練習をしろ!」返す言葉がなかった。おやじのことを考えれば、着るべきとは思ったが、あまりにも恐れ多くて、ユニフォームを着ることはできなかった。結局、土で汚れをつけて、あたかも着たかのようにみせかけて洗濯機に放り込んだ。その夏を最後に私と弟の草野球は終わってしまった。しかし、そのおやじの血は私の中に脈々と生きていた。自分の子供たちの才能・能力のあるなしを問わず褒め続けた。その結果……

2024年7月1日

岸本敏和

photo by kishimoto

註1:理科の授業で「生きている化石シーラカンス」を習ったことから、駄菓子屋のおばあさんをシーラカンス婆さんと最初は呼んでいたが、いつのまにか「シーラ婆」と略したものである。 

註2:2塁が無い三角形の守備陣形  

註3:ビーチサンダルのこと。もっとも現在のビーチサンダルのようにしゃれたものではなくゴムでできた草履のことをそう呼んでいた。

註4:ジャイアンツの背番号1は世界のホームラン王と言われた王貞治選手。3はミスタージャイアンツと言われた長嶋茂雄選手。共に、当時の子供たちのスーパーヒーロー。