哲学の道

 今までの来し方、これからの人生。悔やまれること。望んだこと。知っていること。
知らないこと。結局何も知らない。


 様々な鎧を纏って生きてきた。夜明けが遅くなっている。寒い朝、そんなことを考えながら歩いている。手がかじかむ。耳が冷たい。息が白い。遅れたことに申し訳なさそうな顔をして樹々の間から朝陽が差し込んでくる。雨上がりの舗道に、春夏の役割を終えた落ち葉が舞い落ちている。

 この路は、いつか来た道のような気がする。歩く速度が遅くなる。やがて立ち止まる。楓の老木に触ってみる。木肌は冷たいが、行き交う人々を優しく見つめてきた息が感じられる。一瞬たりとも休みなく時は流れて行く。時代は何処に向かっているのだろう。迷宮に入りこんだかのようである。

遥か昔、在籍していた大学に“哲学の道”と称する小路があった。そこを歩けばニーチェやカントさらには西田幾太郎になったような面持ちで人生を考えていた。しかし、いくら考えても答えは判らないまま卒業してしまった。“哲学を学んでもメシは食えない”と親父は云った。文学も然りであると。そこで、私の頭はいわゆる現実の世界を目指し、なんとかここまで生きながらえることができた。

今、この落ち葉が敷き詰められた道は、あきらかに当時の“哲学の道”を再現しているかのようだ。あらためて頭の中を反芻してみる。哲学のなんたるかが判らないまま済ましてしまっていたが、想い起こせば哲学とは、“物事の本質を探ること”だったはずである。

 人間とは何か?職業とは何か?社会とは何か?差別とは何か?政治とは何か?
諸々の本質を探究することが哲学であった。今考えれば、世の中で一番大切な学問であった。独裁政治、軍国主義、専制国家等々諸々の社会があり、その中でどんな社会が、人々が自由で、抑圧・差別を受けることのない社会であるのか?社会の本質を哲学的に見抜き、出てきたものが、民主主義であろう。その民主主義が崩壊しようとしているなか、香港の人達は立ちあがっている。毎日、数多くの人達が反旗を掲げて行進している。あのエネルギーはどこからくるのであろう?

 我が国のように与えられた民主主義に生きている国民には驚嘆するしかない。「桜を見る会」で国会審議が止まり、年金原資が不足だから「退職年齢を伸ばす」高齢者が増えたから「受診負担を上げる」等々。物事の本質を考えないことが当たり前のようになっている。本質を見ないで場当たりですべてが動いているように見える。

「そもそも〇〇とは何か?」それを考えることが哲学であり、本質を見極める有効な方法であると思う。しかし、私の生き方がそもそも場当たり的であり、哲学からは程遠い頭の持ち主であることは確かなことである。
だからこそ、この迷宮から抜け出し、もう一度戻ろう「哲学の道」へ、更なる学府の門へと、歳の終わりを前にして場当たり的に思う。

令和元年12月1日

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