熱い人

 背中を水が滴るように汗が流れていく。帽子だけでは足りない。日傘が欲しい。焼けつくような舗道を歩いている。健康維持のため一昨年の春から始めた早朝のウォーキングであるが、早朝にも関わらず気温は30℃を超えている。マスクがさらに暑さに拍車をかける。歩きながら思う。健康のためとはいいながら、熱中症になってしまっては元も子もない。家に戻ろう!

人というものは勝手なもので、雨が降り続ければ、日差しが恋しくなり、暑さが続けば一雨降ってほしいと願う。肌を刺すような強烈な暑さが続いている。先月は私の住む街は41.1℃という最高レベルの暑さを記録した。「日本一暑い街、街も暑いが人も熱い」
というフレーズを聞いた。思わず笑ってしまったが、果たして本当に人も熱いか?

7月には、街中の飲食店でコロナ感染症のクラスターが発生した。そのときの感染した人々へのバッシングは目を覆うものがあった。誹謗中傷の嵐であった。私の事務所の取引先の社員も感染した。言葉は適当でないかもしれないが「“村八分”になったようだ。」「会社を辞めたい」という話まで聞こえてきた。誰もが罹患する可能性のある感染症である。誰も好き好んで感染したわけではない。“夜の街”に行くから悪い。スポーツジムに行くから悪い。そんな言葉がどんどん拡散していく。ネット社会の恐怖である。

法に抵触しない限り、職業選択の自由があり、飲食店もスポーツジムも存在価値がある。人はそれで生計を立てている。多くの人はまじめに一生懸命働いている。誰もが感染したいとは思っていない。それでも感染してしまうのが、指定感染症である新型コロナ感染症である。自分は絶対感染しないと思っているのかわからないが、他人をターゲットにする。自粛警察から始まって、マスク警察、SD警察(ソーシャルディスタンス)様々である。”非国民“という前時代的な表現まである。“○○が悪い“、”○○に行くから“という魔女狩りが横行しているように感じる。

そんな低いレベルの社会であったのかと思うと愕然とする。「我が国は国民の民度のレベルが高い」と言って、他国を見下したような発言と非難された大臣もいたが、本当に民度が高いと言えるのか、はなはだ疑問に思う。
民度とは、特定の地域の人々の平均的な教育水準や知的水準、文化水準や行動様式などの成熟度のレベルを示すものと言われている。加えてダイバーシティが最優先される時代である。企業組織も社会も多様性の中にあり、多様性をいかに活かすかが問われる。その多様性社会の中で、コロナ感染者も社会の重要な構成員である。

21世紀も20年が経過している。我々が子供のころに想像した21世紀は、差別のない世界ではなかっただろうか!しかし、未だに肌の色による差別や性差別。多くの差別が存在している。多くの問題を解決することは簡単なことではないが、できることから始めよう。先ずは非難することをやめて静観しよう。それだけでいい!それが冷静さを取り戻し、多様性を受け入れることの社会になることではないかと思う。そのうえで、”熱い人”が増えていけば本当に民度の高い街になる。

熱い人というのは、私の中のイメージでは、相手を思いやる人。困った人を助ける人。面倒見の良い人。面倒なことを引き受ける人等々が描かれる。
浜松が日本一暑い街なら本当に“人も熱い!”と言われるような街に。
したいものである。

令和2年9月1日

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