2022年6月「平和の雨」

 長い旅が終わった。本当に長い旅だった。子供の頃によく聞かされた。彼女の旅の途中の物語である。姉妹二人で、食料の買い出しに行った帰りの田んぼの畦道で米国の戦闘機が二人を狙って機銃掃射してきたと。二人の横を銃弾が走り抜けていく。姉は妹を田んぼに突き飛ばし、自分は身を伏せて何とか助かったと。その時、戦闘機のパイロットの笑った顔がかすかに見えたこと。

大正・昭和・平成・令和と旅をした伯母が103年の旅路を終え、次の世界に旅立った。私の母も存命なら今年で百寿である。二人で100歳を越えようと言っていたが母は5年前に逝った。

 二人から多くのことを学んだ。とりわけ太平洋戦争のときの話は、今もって私の記憶から消えることはない。今は既に取り壊されて残っていないが、伯母の家の階段には、米軍の戦闘機の機銃掃射で銃弾が貫通した穴が3つばかり空いていた。伯母の家に遊びに行くたびに、その貫通した穴を覗き込んでいた。

 姉妹二人は、よく話をしていた。
「戦争はいやだね。二度と戦争はおきて欲しくないね。」
私は、まだまだ子供で、ゼロ戦やら戦艦大和のプラモデルに夢中になっていた。正月のお年玉で戦車を買おうとすると、自動車のプラモデルに替えさせられた。本当に悲惨な光景を見てきたのだろうと思う。

 今月の18日は、浜松大空襲から77年になる。77年前の浜松が、焼け野原だったことは、写真で教えられた。1945年6月18日。その前年から毎月のように空襲を受けていた浜松は、この日の未明、米国のB29爆撃機100機による空襲を受けたのである。65,000発の焼夷弾により、中心部の建物はほぼ壊滅。1,700余名の犠牲者を出している。その後も空襲と艦砲射撃は続き、終戦までに3,000人以上の方がお亡くなりになり、3万1千戸の建造物が焼失され、市内の92%が灰燼に帰したそうである。

 やがて終戦となり、わが国は敗戦国となった。戦時国際法は民間人への攻撃はあきらかに戦争犯罪としているが、敗戦国にはその主張すら許されなかった。現在も、彼の地で民間人を攻撃する戦争犯罪が続いているが、彼の地が敗戦となれば、また戦争犯罪も問われることはないのだろう。

 伯母の言葉を思い出した。大空襲の翌日は、雨だったそうである。「亡くなった方々の涙だろう」と、言っていた。

母もよく言っていた。「焼夷弾の降らない、平和の雨が降る時代が続いて欲しい」と。

令和4年6月1日 T.kishimoto

2022年6月「平和の雨」”へ1件のコメント

  1. 葛西彰 より:

    戦争を語り継ぐ、語り継がなければと思う人がいなくなるには時間がかかりますね。
    日本は長く戦火にまみれる事なく令和まで来ましたが、命がけで乗り越えてこられてきた先人の言葉を語り継いで参りたいです。
    私の両親はポツダム宣言受諾後に、ソ連軍の侵攻で全財産を失い、命からがら樺太から引き揚げてきました。

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