定礎

“今日ママンが死んだ”とアルベール・カミュの「異邦人」の冒頭の言葉が、母の心臓マッサージを必死にしている私の頭の中に浮かんでいた。「起きろ!眼を開けろ!」と言いながらも、母はもう帰らないと思った。冷たい息子であると思う。先月のコラムの末尾に「何とか一年息災で過ごすことができた」と書いたが、そうではなかった。

人生の中でいちばん世話になった人、いちばん心配をかけた人、いちばん我が儘を聞いてくれた人。その人が逝ったのに冷静でいる自分が不思議であった。「異邦人」の主人公みたいな男だなと、まだ考えていた。
六十余年という歳月を共に同じ屋根の下で暮らしてきた人がいなくなった。

それも前日の夜まで元気でいたのに。朝起きたら、いなくなっていた。母は、このコラムにも何回か登場している。人のことを気に掛けているようでもあるが、一番可愛いのは自分であった。いわゆる“ジコチュウ”。人の眼を気にし、優柔不断でもあった。その血は、私の中にも脈々と流れている。

私が、行政書士になったとき喜んではくれたが「お前のような悪筆で、行政書士の仕事ができるのか?」と言った。当時、書類はタイプライターで作成していたから、まあ悪筆もごまかすことができた。

我々の職業のルーツは、諸説ある。江戸時代中期より貨幣経済が発達しはじめ、商人同士の売掛金の督促や土地の境界を巡ってのトラブルを奉行所に訴える書類を本人に代わって代書することを生業とする公事方(くじがた)と呼ばれる職業がそのルーツだという説もあるが、それは、どちらかというと現在の弁護士に近い存在ではなかったかと思う。

明治政府の施策により様々な書類(許可・認可)を役所・警察等々に提出する制度が始まり(今で言う行政の“岩盤規制”の始まりかも?)文字の書けない市民に代わり書類を作成する代書人というものが、全国各地で自然発生的に生まれ、やがてその代書人を管理する代書人取締規則というものが制定され、それが行政書士のルーツではないかと思う。

国が造った制度ではなく、国民のニーズから生まれた制度が行政書士である。いずれにしても、元士族や村役人などが代書人となっており、今現存するそれらの書類をみても、恐ろしく達筆な文字が並んでいる。

母は、そんなことを知る由もなかったと思うが、直観的に文字の下手くそな私が行政書士としてやっていけるのか?と思ったのであろう。20代で開業した際も、ちゃんと仕事があるのか?食べていけるのか?そんなことをよく言われたものである。

しかし、お蔭さまで何とかここまでやってこられた。20数年前に無理して現在の事務所を建築したときには、建物の「定礎板」に達筆だった母に“定礎”の文字を書いてもらった。母は、何処かに逝ってしまったが、この定礎は、残る。

今一度、この定礎にこめられた思いをかみしめ、足を踏み出すこととしよう。国民の要望でできた行政書士制度だからこそ、国民にとって有用でなければ生き残っていくことはできない。多くの先達が死守してきたこの制度を次世代に繋げるためにも、礎(いしずえ)の意味を考え、前に進んで行こうと新春の陽光のなかで想う。
平成30年1月1日

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