2025年3月「歴史散歩その1 ケンモツ坂」

(はじめに 今回のブログは通常のブログより長文になってしまいましたので、途中で飽いたら読み捨ててください)

 “3821”と表示されたスマホを見る。悴んだ指でスマホの歩数を確認する。ここで終われば今朝の散歩は往復で8000歩弱。早朝の散歩は、毎日のように続くときもあれば、睡魔に勝てずに三日も四日も休んでしまう。何かに夢中なると思えば、すぐに飽きてしまう私は、生来の怠け者かもしれない。

 しかし、今日はもう少し歩こう。いつもと違う道を選ぶ。見上げれば、壁のように急坂がそそり立っている。白い息を吐きながら、足元を踏みしめて登る。息を切らせながら壁を越える。この道は何度か通ったことがあるが、こちらの北側から登ったのは初めてである。南側から登るのと比べてかなり急坂である。

 坂の頂上付近に近づくと何やら石塔が見える。南側から登った時には、民家の陰で見えなかったものである。墓石が立っている。石碑もあるが、早朝の薄ら明りの中で、墓石に刻まれている文字が読めない。寒さをこらえて墓石を見つめると「監物」という文字が何とか判読できた。思わず “あっ” と思った。だからこの坂を「ケンモツ坂」と呼んでいたのか。

 私の住む街は、南アルプスから張り出してきた台地の南端である。したがって坂道が多い。この「ケンモツザカ」から1㎞以内に、オルガン坂、切通し坂、灯篭坂と坂が続く。オルガン坂は、世界的楽器メーカーの創業者山葉寅楠が、明治の初めにオルガン制作をした工房があったことからその名が付けられたという。灯篭坂は、国学者賀茂真淵が夜遅くに灯篭を提げて、この坂を上りながら坂の上の師を訪ねていたことから、この名が付けられたらしい。切通し坂は、文字通り丘陵地を切り開いて台地の上に登りやすくした坂であろう。

 これらの坂道に人物らしい名前が付けられているのが唯一「ケンモツザカ」である。さて、「監物」なる人物はいずれの人か?

(すこし、ケンモツさんにお付き合いください。)

 風化した墓石にも、よく見れば「平手監物」の名が刻まれている。史料によると本名は平手汎秀(ひろひで)。織田信長の家臣である。官位が「監物」であることから、平手監物とよばれたらしい。

 日本全国各地に群雄が割拠する戦国時代。元亀三年一月(1573年1月22日)上洛を目指す甲斐の武田信玄率いる武田軍を現在の静岡県浜松市中央区三方原町で信長・家康連合軍が迎え撃った戦いが、世に言う「三方ヶ原の合戦」である。

この戦いは、徳川家康がその生涯において唯一敗北した戦であることからも戦国史に残る戦いである。この三方ヶ原の合戦で亡くなった平手監物を弔ったのがこの墓石であるらしい。隣に建つ石碑を見れば、敗軍の将として、この地で討死にしたようである。三方原町の住所を見れば、中央区となっているが、これは昨年の区制の改革から中央区が広範囲になったものであり、在住の者からすれば、三方原町は、浜松市の北部という認識である。                                                                                            

 史料によれば、三方ヶ原の戦いは、三方原台地で火ぶたが切られたが、徳川家康は、圧倒的な武田軍に壊滅状態に陥り、命からがら浜松城に逃げ帰った。となっている。浜松城から三方原台地まで直線距離でおよそ5キロメートル、さらに浜松城からこの墓石の立っている監物坂まで直線距離で約2キロメートルはある。平手監物がどこの位置で戦っていたのか資料が乏しいことから、判然としないが、合戦の主戦場とは、かなりの距離の隔たりがある。浜松市の史料をみても戦いは、ほぼ浜松城の北方で行われており、坂を下れば平地が拡がる監物坂まで信玄の手勢が回っていたのには驚きであった。

 平手汎秀は、尾張(現在の名古屋市西域)の出身であり、織田信長の家老であった平手政秀の孫にあたると言われている。平手政秀といえば、若かりし織田信長が、行儀も素行も悪く織田家の後継者には相応ではないとの意見が多くあった中で、自死をもって信長を諫めた侍である。したがって、その血統を継ぐ平手汎秀は、信長に取り立てられ若くして一軍の将であった。没年が20歳であったことから、若さにまかせ、血気に早って敵陣に切り込んだと言われている。

この合戦で戦った信長・家康連合軍の武将たちは、ほぼ三河出身者と尾張出身者であり、名を挙げるために故郷を離れ、異国の地に散っていった。市内にはその者達の塚があちらこちらに存在している。また、彼らの子孫たちも故郷に帰ることなく、浜松の地で確実に根付いている。監物坂の石塔からすぐそばに、平手を名乗る商店がある。私の先輩である。いまさらながら、恐る恐る監物さんとの関係を尋ねると、「ご先祖様です」という答え。浜松で生まれ育った私だが、郷土のことは何も知らなかったのである。歩くばかりが散歩ではない。たまには歴史も散歩してみたい。                                                                 

(最後まで読んでいただいた方々に感謝します。)

2025年3月1日

参考文献

 静岡県立浜松北高等学校歴史部 編『曳馬野第5号』静岡県立浜松北高等学校歴史部 1993年

 静岡県立浜名高等学校史学部 編『伎倍』静岡県立浜名高等学校史学部 2009年

 平山 優 著『家康と三方原合戦』NHK出版新書 2022年

 浜松市教育委員会編『浜松城址―考古学的調査の記録』同会 1996年

 小和田哲男 編『浜松の城と合戦―三方ヶ原の合戦と遠江の城』サンライズ出版2010年

 谷口克広 著『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館 平成10年

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