オッカムの剃刀

夏至はとうに過ぎたのに、しばらく日の入りの時刻は変わらない。雨雲に覆われた空が、日没近くになって、にわかに雲間から光を放つ。美しく息を呑むような夕焼けとは少し違う。家並みは裸電球が照らし出す世界のように、ぼんやりと切なくも薄ら明かりの中に在る。

なんとなく世界が終ってしまうような恐ろしさを感じる。

ニュースは連日新型コロナウィルスの感染拡大を伝えている。
多発する地震や豪雨。低迷する経済。失業者の増大。
夕陽に罪はないのだが、それら諸々が夕陽の怖さに影響して
いるように思える。

しかし、この夕暮れは何処かで見たような気がする。この陽の色は・・・。年齢を重ねるごとに落ちている記憶の糸を繋いでゆく。思い出せない。子供のころ、大人になってから、数は多くはないがこんな日の暮れに感じた恐怖とは。
こんな時には・・・、陽の色、日暮れ前、恐怖、切なさ、孤独とクイズ番組のように単語を並べてみる。 脳のシナプスを電流が通過し、海馬から記憶を取り出してくれた。

そう“ムンク”の「叫び」である。
あの絵の夕暮れの光、橋の上の情景。全体を覆う切なさと孤独が恐怖を醸し出している。何を叫んでいるのか。絶望に打ちひしがれているようにも見える。朽ちかけている木造りの橋。後ろから表情の読み取れない人影が迫る。川波は暗く逆巻いている。ムンクの「叫び」の情景と同じような陽の光の怖さである。

 自身が感じた夕陽の怖さを伝えるためにこれだけの理由を挙げてきたが、物事を考えるにあたって余分なものは削ぎ落してシンプルに思考する方法として、「オッカムの剃刀」という法則がある。これは、14世紀イギリスのオッカム村出身のウィリアムという哲学者が提唱した問題解決の法則である。「ある事柄を説明するためには、余分な仮定を入れずにシンプルな仮定で答えを得るべきである」という思考方法である。5つの仮定からXという答えを出すなら、2つの仮定でXという答えを出すべきであるというような思考節約の法則である。剃刀は、説明に不要な仮定を削ぎ落とすことを意味している。

 この法則に従えば、あまり経験のない夕陽の色、新型コロナウィルス感染症の蔓延拡大に伴う不安。これだけの仮定で日の暮れの怖さという結論が導き出せる。ムンクまでたどり着く必要はなかったのかもしれない。

新型コロナウィルス感染症の「第2波」が起こりうる可能性についても、様々な仮定がある。外出自粛規制の解除、都道府県をまたぐ移動規制の解除、飲食店営業の再開、人々の気の緩み、海外からの来訪者の増大、ウィルスワクチン開発の遅れ等々の仮定から第2波は必ず来るという結論を導くものであるが、仮定を、移動規制の解除、ウィルスは消滅していないという2つの仮定に絞っても第2波は必ず来ることが想定できる。

一つの思考方法として、シンプルに物事を考えるという「オッカムの剃刀」は、大いに参考になるものである。しかし、すべての事柄がこの法則を用いることができるわけではなく、むしろこの法則が容易でない場合も多いと思う。

シンプルに思考する必要性はあるものの、寄り道しながら考えるのも人間らしいと思う。
ムンクの「叫び」は、別の記憶を蘇らせてくれた。
”私の子供たちが小学生のころ、夕陽を見ると両手で両耳を塞ぎながら頬にあて、口をすぼめ「叫び」の真似ごとをしながら遊んでいたことを・・・。”

令和2年7月1日

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