Today different from yesterday

いつものように散歩に出るが、ひとけが少ない。ちょっとコースを外れてみる。今は静寂に包まれている。振り返ってみても人影はない。遠くに眼をやっても、誰もいないこんな良い天気なのに背中がゾクッとする。


誰かが魔法をかけたのか、昨日と違う今日があった。
年の初めには誰一人予測できなかった世界が訪れた。
夢でも見ているのか?「夢だった!」と目覚めたいが、残念ながら現実である。東京もパリもニューヨークもマスクだらけの街となり、シャンゼリゼもブロードウェイも渋谷からも灯が消え、人影は途絶えた。

団塊の世代と呼ばれる世代の少し後に生まれた私。何の脅威に遭遇することもなく生きてきた。父母の世代は、戦争という大変苦難な時代を生き抜いてきた。それに比べたら我々の世代以降は、震災や自然災害には遭ってきたが、世界中を混乱に陥れる脅威に遭遇するのは初めてのことである。

日々の予定が決まっており、仕事の締め切りに追われながらも、
来週・来月の予定を考えたりすることを当たり前のようにしてきた。会合や打ち合わせ、研修の予定など諸々の予定を組んで過ごしてきた日常。その日常が忽然と消えた。
出かけることも少なくなり、びっしりスケジュールが組まれた手帳に空欄が目立つようになり、人と出会うこともめっきり減った。しかし、景色は季節に合わせて新緑の輝きを取り戻し、薫風の中、花々は咲き乱れている。人類は未曾有の危機に直面しているが自然界は、営々とその営みを続けている。霊長類最高の頭脳を持った人類がウィルスに翻弄されていることなど関係なく、季節は巡り地球は回っている。

 俯瞰すれば何も日常は変わっていないのかもしれない。 「地球は人類が主人公ではない!」と。高校生だった頃に流行った歌を思い出した。「青い地球は誰のもの」という曲である。歌詞に答えはなかった。地球は誰のものでもない。考えさせられる歌詞であった。時代背景は、泥沼化するベトナム戦争、世界各地で勃発する紛争。経済成長による大気汚染や水質汚濁等のいわゆる公害問題が渦巻く時代であった。

宇宙船地球号」という言葉がクローズアップされ、その乗組員はすべての生き物であるという考え方が、様々な論客から主張されていた時であった。

 時代は変わったが、「宇宙船地球号」に変わりはない。すべての生物が地球号の乗組員である。その“日常”を破壊してきたものが我々人類かもしれない。考えてみれば、昨日と同じ今日はないし、今日と同じ明日もない。淡々と粛々と日々を過ごしていくことほど重要なことはない。魔法は、ハリーポッターの中にしか存在しないものであるが、朝の来ない夜はない。それは不変の日常である。
出来る限りの日常を維持することが肝要なことでは、ないだろうか。
令和2年5月1日

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