「我々は何処へ行くのか」
梅雨空の中から、突然急に日差しがのぞいて雨が上がった。あちらこちらに水溜まりができている。青色の長靴を履いて水溜まりに入る。雀が2羽、水溜まりで遊んでいる。長靴でバシャットと水を蹴ると、雀が逃げていく。私がまだ幼稚園に入る前の記憶である。それが、私の中の最古の記憶である。それ以上古い記憶は持ち合わせてはいない。人によっては胎児のころの記憶があるという話も聞くが、私には無い。水色の長靴以前は何をしていたのだろう。私はどこから来たのか?
梅雨空が長く続く上に、コロナ感染症の収束も見通せないことで、ふとメランコリーになってしまった。この閉塞する社会の中で鬱症状になる人も多いという。自分では鬱ではないと思っているが、立ち止まることが多くなったような気がする。昨年の今頃は、未来に向かって様々なことを描いていたが、今の長すぎる閉塞状態は、マスクをしているせいか余計に閉塞感を感じ未来が描けない。
ふと視線を軒先に向けると、それこそ雨の晴れ間に大型の紋黄揚羽蝶が飛んでいる。それこそ「お前は何処から来たのか?何処へ行くのか?」と問いかけたくなる。そこまで思ってふと思いだす。フランスの画家ポール・ゴーギャンである。いろいろな理由があってゴーギャンはタヒチに渡ったのだと思うが、アゲハ蝶を追いかけて、タヒチに渡った。とでも思いたくなる。
盟友ゴッホとの愛憎、確執、生活困窮さまざまな理由があってゴーギャンはタヒチに渡ったとされるが、そんなことはどうでもいい。ただ蝶々を追いかけてタヒチに向かったと思うほうが、まだ救いがあるように思える。タヒチで描いたゴーギャンの絵は、人々の胸を打つものが多い。その中でも代表作が「我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか。」というやたら長いタイトルの絵画である。
私の心は、絵画自体よりもこのタイトルに引っ掛かかった。閉塞感の漂う社会の中で我々は何処へ行くのか?閉塞する社会の最大の要因、コロナ感染症の拡大。それを阻止すべくワクチン接種が始まっているが、ワクチン接種を望まない人も多いという。接種自体は義務ではなく本人の意思だから、打つ、打たないは本人の自由である。しかし、ここでまた差別が生じている。接種しない人への差別。接種した人への差別。人はどうしてグルーピング化して差別するのであろう。
「我々は何者か」多様性社会、多様性社会と繰り返して世間は言っているが、その実多様性など認めない社会の空気がある。男女平等とは誰もがわかっているが、現実には明らかに格差がある。
物質的な面では数十年前とは格段の開きがあるが、人の心の奥底に潜む非類似性を拒む部分は到底変わらないものであるか。
そんなときに「我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか」と思索を巡らせるのも決して無駄なことでは無いように思う。
しかしながら、この梅雨空が終わる日が来るように、この閉塞状態もいつかは必ず終わる。
時には立ち止まることも必要ではあるが、未来に向かって一歩を踏み出せるように、柔軟性とアナーキーな精神を養っておこうと思う。
(Photo by kishimoto)
令和3年7月1日