「されどわれらが日々」

 夜のとばりが、まだかまだかと出番を待っている。陽の暮れが日増しに早くなっている。ステージの幕が降りるように夜の暗闇があっという間に忍び込んでくる。暗いことが怖い。思えば子供のころから暗いことが恐怖であった。
 
 今日も昨日より早く暗くなった。急いで部屋の電気を点ける。いつもと違う。なぜか暗い。見上げると本棚の上の電球が切れている。取り替えようと脚立に乗る。切れた電球を外していると声が聞こえた。

 「ここだよ」「振り返って!ここだよ」「忘れないで!」 思わず本棚に眼をやる。そこには多くの書籍に紛れて、1冊の黄ばんだ本があった。私を呼んだ本は、柴田翔氏の「されどわれらが日々」であった。忘れていた記憶が瞬時に蘇る。高校生のときに読んだ本である。ある意味私たち世代の”バイブル”である。

 太平洋戦争の痛手から立ち直り、世の中が平穏になってきた頃から、政治や経済に対する不満が若者たち(特に大学生)の間に充満していた。日本共産党主導による武力闘争をも辞さない共産党革命を夢見て、いわゆる”学生運動”が日本国中を覆い尽くしていた時代。

 
しかし、やがて
日本共産党は武力闘争の方針を撤回した。
共産党革命を目指して「日本政府打倒!」を叫んでいた学生たちの目標や価値観が総崩れになる。そのような世情の中、今を、どのように生きていくのか?を世に問うた作品である。友人の死・挫折・裏切り・別れ・出会いが抒情的に書かれている。大学生になってからも何度も何度も読み返したものである。

 少し引用してみよう。

やがて、私たちが本当に年老いた時、若い人たちが聞くかもしれない。あなた方の頃はどうだったのかと。その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じように困難があった。もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。そして、私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの時代にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進みだした人がいたのだと。

『やがて、私たちが本当に年老いた時、若い人たちが聞くかもしれない。あなた方の頃はどうだったのかと。その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じように困難があった。もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。そして、私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの時代にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進みだした人がいたのだと。』

 切れた電球の取り換えも忘れ一気に読んでしまった。50数年前に刊行された書物ではあるが、今なお、色褪せていない。
誰もが想像すらしなかったコロナ感染症、毎年のように襲い来る集中豪雨・土砂災害、地震、火山噴火等。また世界の各地で紛争が絶えまなくおき、きな臭い匂いの中国や北朝鮮による東アジアの緊張。戦争などおこるはずもないと思っているが、安全保障の確約などどこにもない。

 日々横たわる日常が消えていく。困難な時代である。今まで信じてきた価値観もその脆さを露呈し始めている。そのような不確実な時代に、私たちはどう生きていくのか?あらためて「されどわれらが日々」の持つ意味を考えてみたい。

 本稿が、ホームページにアップされる頃には、今回の国政選挙の結果も出ていることであろう。どんな時代になっていくのだろう。いずれにしても困難が伴うことは間違いのないことであろう。しかし、この時代に、困難に馴れ合って生きたのか?困難から抜け出して新しい時代へと勇敢に進んだのか?私たちの”されどわれらが日々”を伝えていかなければならないと思う。
 おっと、その前に電球の交換を。

令和3年11月1日
岸本敏和

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