2025年6月 「歴史散歩その2 台場」

 その本は、重たかった。家から図書館までは歩いて5分。この5分が長かった。家に帰り、その本の重さをはかると20㎏を越えていた。何の本かと言えば、浜松市の自治体史5巻である。縄文時代から、近代にいたるまでの浜松の史実が記されている本である。

 ひょんなことから、自分の住む町の自治体史を読まざるを得なくなったのである。浜松市に住んで○○余年(○○の中は、読者の推測にお任せする)、地元の歴史など、小学校で学んで以来である。まあ、そんなことはどうでもいいが、とにかくこの中から、ひとつの事象を選択し、歴史がどう動いたのかを著述しなければならない。

 とにかく長い歴史の話である。何を選ぶべきか?縄文時代から目を通した。鎌倉時代まで読んだところで、力が尽きた。気休めにテレビをつけたら、Fテレビにおける人気タレントの話が流れていた。話の中身に全く関心はないが、この企業の本社所在地の名称が引っかかってきた。“お台場”である。お台場は、幕末に押し寄せた黒船を砲撃するために、大砲を据え付けた防衛施設の名前である。

 そこで、再び史料に向かった。浜松市にも“お台場”はあったのか?ページをめくると、“あった!” 浜松にも黒船を迎え撃つ、大砲の台場が構築されていたのである。しかも、三基築造されたうち一基が現存しているという。浜松市のホームページで検索すると、市の指定史跡になっている。地図を確認すると、車で20分くらいのところである。

「善は急げ」と、(何が善かわわからないが)現地に行ってみた。こんもりとした丘になっている。石碑があるが劣化して文字が読み取れない。近くに説明版が立っていた。安政七年(1855年)に浜松藩主井上正直によって築造されたとある。高さ27メートルの丘陵の上に大砲を据え付けたらしい。現存する台場は、風化が進み高さ7~8メートルぐらいしかない。上まで登ってみたが、海は見えなかった。

 ペリー提督が率いる米国インド艦隊が浦賀にその姿を現したのが1853年であるから、その2年後に浜松藩は防衛施設を構築していたのである。史料に戻れば、台場築造時の藩主は井上氏であるが、築造直前の藩主は、江戸幕府老中を務めていた水野忠邦である。中央政府の中枢にあったことから、外国船の動向も耳に入っていたに違ない。早くも天保15年(1845年)には、浜松藩において『海防御備組書』『自国警衛組書』などの海防政策をまとめている。浜松市の南に遠州灘という海洋がある。このころから、アメリカ・イギリス・フランスなどの黒船(戦艦)が姿を表していたことから、浜松藩の危機意識は比較的早い時期からあったのであろう。幸い戦火を交えることなく明治期を迎えたのであるが、それから100年後、米国太平洋艦隊が遠州灘沖に現れ、浜松市に砲撃を加え、浜松市を焦土と化したことは、決して忘れてはならないことである。

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205年6月1日-

photo by kishimoto