2026年6月『クールビズに思う』
6月といえば衣替え。そう言われても、もはや季語としての役割は薄れつつある。では何と呼べばいいのか。クールビズか? この言葉も登場して二十年近く、本来は夏限定の省エネ作戦だったはずのクールビズも、気づけば四季をまたいで広がり、いまや“常時ラフでどうぞ”という新しい服装文化に進化した。ネクタイを外し、上着を脱ぐという行為は、すっかり一年中の景色になった。
そんな中、今夏は東京都庁が「男性は短パンでも可」と打ち出した。ここまでやるかと思ったが昨今の高温の夏では無理もないことかもしれない。しかし、自由度が上がるほど、選択の責任は重くなる。「自由とは、実は不自由なものだ。」という言葉が、妙に現実味を帯びてくる。
さて、クールビズの象徴といえば、近年は何と言っても白Tシャツにジャケットである。街を歩けば、この組み合わせの人に必ず出会う。しかし、厄介なのは、白Tは“似合う・似合わない”が極端に出るアイテムだということだ。体型、姿勢、肌の色、髪型。どれか一つでも噛み合わないと、白Tは途端に“部屋着感”を放ち始める。白Tはシンプルであるがゆえに、誤魔化しが効かない。白T×ジャケットが似合う人は、もともと何を着ても似合う人である、という残酷な真実すらある。
ポロシャツ派も健在だ。襟があるだけで最低限のきちんと感が出るし、汗も吸う。しかし、何かのロゴが入ったものだと「休日のゴルフ帰り」、色を誤ると「コンビニの店員」へと変貌する。無難に見えて、実はもっとも無難でない服。それがポロシャツではないか。
一方で、真夏でもネクタイを締め続ける人がいる。彼らはある意味で“ダンディズムの人”だ。暑さに耐え、汗に耐え、それでも「自分はこうありたい」という姿勢を崩さない。しかし周囲からは「見ているだけで暑苦しい」と思われてしまう。クールビズの季節は、ネクタイ派にとっては少し肩身が狭い。
結局のところ、クールビズとは「何を着てもいい」制度ではない。「自分に似合うものを選ぶ責任を負う」制度である。服装は仕事観や生活観、さらには美意識までも映し出す。だからこそ、クールビズは単なる省エネ施策ではなく、ひとつの文化へと育ったのだ。
さて、私自身のことだが、本音はアップルのスティーブン・ジョブズのように白Tシャツにジャケットといきたいのだが、全く似合わない。じゃあ、テニスの錦織圭のようにポロシャツでと思うが、これも全く似合わない。結局は、ネクタイをするかしないかの選択になってしまう。
つまり私のクールビズとは、「ネクタイを外す」というたった一手に集約されるのだ。二十年にわたる服装革命の末、私が手にした自由は、長さ150センチの布切れ一本を首から取り除くかどうか、ただそれだけである。ジョブズは偉大なイノベーターだったが、私のイノベーションはネクタイを外すことだ。それでも、外した瞬間の解放感は、なかなかのものである。来年こそは、白Tが似合う男になろうと、今日もひそかに腕立て5回・腹筋を3回やってみた。
2026年6月1日

phto by X

