2026年7月『すっぱいぶどう』

 五年ほど前の父の日に、娘が鉢植えのブドウを贈ってくれた。鉢植えの割には立派な房が四つ五つぶら下がり、驚くほど甘かった。私は「来年も甘い房が実るだろう」と、どこか漠然とした期待を抱いていた。しかし現実は甘くない。鉢のままでは葉ばかり茂り、実はつかない。水やりも肥料も“気が向いたときだけ”。今思えば、あれで実がつくほうが奇跡である。                      

 三年前、思い切って庭に地植えした。根が伸びる場所さえあれば、あとは植物の力に任せればいい。そう思っていたのに、植え替え直後は葉がしおれ、枝も頼りなく、「これはダメかもしれない」と弱気になった。それでも季節は巡り、今年ふと庭を見たら、枝という枝に小さな実が鈴なりになっていた。あの頼りなかった鉢植えのブドウが、堂々たるブドウの木になっていたのだ。熟れていないが一粒つまんで食べてみた。「酸っぱい!」

 その瞬間、遠い記憶の彼方からイソップ童話の「すっぱいぶどう」が蘇った。キツネが高い所のブドウを取れず、「どうせすっぱいに決まっている」と負け惜しみを言う、あの話だ。私はあのキツネを笑っていたが、どうやら笑っていられない。思い返せば、私自身も“すっぱいぶどう”を量産していた。                      

 たとえば、机の端に積み上がった未開封の専門書。買ったときは「これで知識が広がる」と胸を張っていたのに、ページを開くと文字の小ささに指先が止まり、「一冊読んでも知識は広がらない」と自分に言い訳した。そして、本は更にその高さを増していった。       お酒でも同じだ。「今日は控えめにしよう」と心に誓ってグラスを手にするのだが、琥珀色の液体が光を受けて揺れると、その揺れに心がほどけてしまう。「まあ、今日くらいはいいか」と自分を甘やかし、翌朝の後悔だけは確かな形を持って訪れる。

 そして、大学院の授業。所属するゼミの学生たちの知識量と議論の鋭さは圧倒的で、芸術論や文芸理論の授業についていくのに四苦八苦している。                          そんなとき、ふと「芸術なんかなくても生きていける……」とつぶやきたくなる自分がいる。これもまた、手の届かないブドウを「どうせすっぱい」と決めつけるキツネの姿に重なる。できない理由を探すのは簡単だ。やらない自分を正当化するのはもっと簡単だ。そうして私は、挑む前から“すっぱいぶどう”に仕立て上げていたのだ。

 一方、庭のブドウは、そんな私の言い訳とは無関係に、ただ淡々と根を張り、季節を重ね、実をつけた。やるべきことをやり、時間を味方につければ、結果はあとからついてくる。植物はそんな当たり前のことを、黙って体現してみせる。今年のブドウはまだ熟していない。少しすっぱい。けれど、そのすっぱさを噛みしめながら私は思う。「すっぱいぶどうのキツネにならないように」と。さて、積み上がった本の塔にも、そろそろ手を伸ばしてみよう。お酒も、本当に控える夜を一度くらい作ってみよう。届かないと思っていたブドウは、案外、手を伸ばせば届くのかもしれない。……と、書けば教訓めいた話となるのであろう。                              しかし、人生はそんなに簡単にはいかないものである……。

現在の画像に代替テキストがありません。ファイル名: ぶどう.jpg

2026年7月1日

Photo by kishimoto

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