春遠からじ

西の空の雲間に、帰り遅れた早朝の月が冷えびえとした顔で浮かんでいる。満月が過ぎたばかりの月は、誰にも見られることもなく寂しそうな帰り支度である。陽が当たりだすころには、梅のつぼみが、幕前の女優のように、今か今かと頬を膨らませながら凛と澄ましている。
上着を脱ごうかと思えば、ちょっと待てとばかりに掌がかじかんでくる。見上げれば空はどんより曇り、風花が舞っている。

季節の変化に体調がついていけない。しかもコロナ禍である。私のような高齢者はさらに気を付けなければならない。打合せや会議、セミナーなどはオンラインでおこなうことが多くなった。まして、通勤や移動は車に頼っているから、感染のリスクは少ないと思うが、それでも油断は禁物である。

出歩くことが少なくなり、わかったことがいくつかある。オンラインで仕事がある程度でき、行き帰りの時間もかからない、働き方改革もできて良いではないかと思った。しかし、ある時、突然頭の中に何とも言いようのない空白が生まれた。何だろうかと考えた。寂しさ・虚しさ・気だるさ?違う!鬱かもしれない?それも違う!何だろう?・・・・。

そうだ充実感だ!電話・メール・Web等で仕事を処理していても、直接人と人の会話が少ない。仕事の結果は同じでも、面と向かって仕事をしていたときと充実感が違うことに気が付いた。手帳にびっしりと予定を書き込み、それを消化していくことに快感を得ていた。それがないのである。オンラインでの仕事は、それなりに便利であるが、人間が醸し出す繊細な情緒とでも言うのか、微妙なニュアンスが感じ取れない。

生まれたときからスマホが横にあった世代と違って、やはりアナログ人間なのであろう。デジタル社会に乗り遅れないようにと、ひと様には言うが、根本はアナログなのであろう。そのアナログ人間が、パソコンやらスマホに浸りきっているから五感が鈍くなってしまう。加齢とともに五感は劣化する。その上デジタルに頼り切っていると、自分を見失ってしまう可能性があることが、このコロナ禍のなかで分かったことのひとつである。

メジロ・梅のつぼみ、月を見ても、もっともっと感じられるものがあるはずである。感性がただでさえ豊でないのに、更に鈍化していく。一日も早く人と人が顔を合わせて活動のできる“春”を待ち望んで、しばらくは不要不急以外、デジタルから遠ざかろうかと思う。いずれにしても、季節もコロナ禍も「春遠からじ」としたいものである。

令和3年2月1日

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