2026年9月『ある日、ある時、ある本』
若い頃(今でも若いつもりではいるが、世間がそうは見ない)は、花の名前など気になることもなく過ごしていた。ところが、年齢を重ねた今では、花の名前が気にかかる。庭先に咲く小さな花にも、ふと足を止めてしまう。名前を知りたくなる。人間の感性は、若い時のほうが感性が強いと言われるが、歳とともに静かな感性が磨かれてくるのではないか? と、思う。今日も今日とて、小さな庭先に紫色の玉をつけた植物を見つけた。名前は、「ムラサキシキブ」である。本当の名前は、「コムラサキ」と云うらしいが、園芸店の販売戦略上「ムラサキシキブ」のほうが優雅な感じがして売れるということから名付けたらしい。ムラサキシキブと言えば、当然に紫式部の『源氏物語』である。日本文学史上、類を見ない傑作だと言われ、私も高校時代と大人になってから二度読んだ。
ところが「ある日、ある時、ある本」(註1)を読んでいたら、戦前(第二次世界大戦)には、源氏物語における「禁断の恋、複雑な男女関係」などが教育には不向きであるという理由から教科書から削除をする運動が拡がっていたということを知った。戦後の高校古典授業では、中心的な役割を果たした『源氏物語』であるが、そんな肩身の狭い思いをしたことがあったなどとは知る由もなかった。
JD・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』も同じようことがあったらしい。この本は、私の大学時代のベストセラーだった。この本について一言語ることが出来なければ学生ではないような風潮であった。私も繰り返し読んで、いっぱしのサリンジャー気取りでいた。
そしてまた「ある日、ある時、ある本」(註2)を読んでいたら、この本もまた、発禁処分や有害図書扱いを受けていたらしい。「退学を繰り返す少年や家出」などの表現が当局の不興をかったらしい。しかし、内容は青年期にある人間が読むべきことが書かれていることから有害図書の指定からはずされたという。
そんなことから、私の娘の息子にあたる(ここは回りくどい言い方だが)中学生に読ませようと本棚から探して渡そうとすると。「読んだよ。面白かった」との返事。そこで「実は昔、有害図書扱いされていた本なんだよ」と私。「ふーん、でも面白いからいいじゃん」と彼は気のない返事をして、自分の部屋へ戻っていった。残された私は、手元に残った一冊の文庫本を見つめた。 若い頃の感性で揺さぶられた本が、歳を重ねて知る世界によってまったく違う景色を見せてくれる。そして若い世代は、何の先入観もなくその物語をそのまま受け止める。売り手の都合で「ムラサキシキブ」と名付けられた庭のコムラサキと同じように、本につけられた「有害」という名札もまた、時の流れとともに意味を失っていくのだろう。ただそこには、時代を超えて「ある日、ある時、ある本」として誰かの心に届く物語があるはずである。まだ猛暑が続いているが、一応“読書の秋”に寄せて。
2026年9月1日

photo by kishimoto 参考文献 (註1)岡潔 小林秀雄著『人間の建設』新潮社 令和8年4月15日
(註2)ルース・ショウ著 清水由貴子訳 『世界の果ての本屋さん』晶文社 2026年3月25日

