2026年11月『不揃いの靴たち』
ある休日に子どもや孫たちが集まってきた。すると、玄関はあっという間に靴で埋め尽くされた。昔、『ふぞろいの林檎たち』という有名なドラマがあった。形が歪でいたり傷があったりして規格から外れても、それぞれに一生懸命で味わい深い若者たちを描いた物語だ。この玄関を眺めていると、ふとあの物語を思い出す。我が家の玄関に転がっているのは、さしずめ「不揃いの靴たち」である。
白、黒、青、ピンク。大きな革靴に、泥のついた小さなスニーカー。整然と並ぶどころか、それぞれが好き勝手な方向を向いている。その無秩序な賑やかさは、まるで小さな社会の縮図だ。耳をすませば、靴たちの小競り合いが聞こえてくる。 「おい、踏むな」 「そっちがデカいから悪いのよ」 「これは大人の貫禄だ」 「ただの甲高幅広だろ」 意見はまったく揃わないが、誰も困っていない。この場が成り立っているのは、同じだからではなく、違うからなのだ。
昨今は「多様性」という言葉をよく耳にする。だが難しい理屈を抜きにすれば、多様性とは案外この玄関のようなものではないだろうか。全員が同じ黒のスニーカーを履いていたら、家族団らんか自衛隊の合宿かわからない。私たちは、つい「揃っていること」に安心しがちだが、形が不揃いな林檎にそれぞれの甘酸っぱさがあるように、人間も靴も、違っているからこそ面白い。
楽しい時間が過ぎ、帰る間際になると決まって「オレの靴どれだっけ?」という靴探しが始まる。同じ方向を向いていなくてもいい。規格通りに揃っていなくてもいい。秋の光を浴びて転がる不揃いの靴たちを見ていると、この凸凹とした賑やかさこそが家族の温もりであり、豊かな社会の姿なのだと思えてくる。と、美しい多様性論で綺麗にまとめたいところだが、他人のスニーカーに無理やり足をねじ込んでいる孫を見ていると、まずは「自分のもの」と「人のもの」の区別をつけるところから始めてほしいものである。
2026年11月1日

photo by kishimoto

